楽園はどこにある?
桃源、という言葉が目に留まった。人々が探し求める楽園というイメージだったが、本来の意味が気になって、検索窓をたたいた。桃源郷、それは俗世を離れた理想郷。古代中国思想に語られた東洋概念であり、簡潔にいうなら『平和な楽園』だ。
平和で、悲しみや苦しみから解放された、幸せな世界。どの時代も人は、そんな理想郷を追い求める。
昔見た映画「西遊記」で流れた曲が、記憶によみがえる。
-そこに行けば どんな夢も かなうというよ-
-どうしたら行けるのだろう 教えて欲しい-
幸せになりたい。何処へ行って、何をしたら、私は幸せになれるのだろう。わからない。わからないけれど、今そうでないことだけはわかる。だから、ここではないどこかへ、私の幸せを探しに行こう。
人はよく、自分探しの旅に出る。理想は「ココ」にはないからと、自分の知らない外側へ向かう。物理的に遠い場所へ行くこともあれば、人とは違う行動をとることで、自分の理想に近づけるのではと試したりもする。そうして、自分自身から離れていって、私の幸せは何だろうと途方に暮れたままなのだ。
離れて、はなれて、離れていって、あるとき、自分に近づいていく。自分の外側に答えを探すのではなく、自分自身の内面に向き合ったとき、私の幸せが何かを知る。
-海の彼方には もう探さない 輝くものは いつもここに わたしのなかに みつけられたから-
「千と千尋の神隠し」 エンディングの美しい一節は、私たちの桃源郷(しあわせ)を歌っていた。
答えはどこにあって、誰が知っているのか。答えはココにあって、私だけが知っている。
宝の地図を手につかんだら気づくのだ、桃色の楽園が目の前に広がっていることに。
好きになれないのは、私が私でいられてないから。
人は自分の興味の中だけでしか生きられない。
人生は、自分の興味の範囲から出られないようになっている。
興味の外に出ようとすると、頭がついていけなくなって、心が離れてしまう。つまり、自分軸から外れてしまうのだ。
自分の興味のあることは、いくらでも話せるし、考えていると楽しい。でも興味のないことは、楽しさを感じられない。
話していることが楽しく感じられないとき、それが自分軸から外れているからだということに気がつかず、話すこと自体が得意じゃない、好きじゃないと思ってしまうことがあるかもれない。
でも、そうじゃないんだ。
誰かと一緒に過ごしていて、その人のことを好きじゃないかもと感じてしまったとき、その人自体が自分に合わないんじゃない。
私が相手に合わせるあまり、自分が興味のないことをしたり話したりしてしまって、過ごす時間が楽しくなくなっているだけだ。
自分が自分の席に座っている状態で、もう一度その人と向き合ってみよう。そうしたら、また違った感じ方になるかもしれない。
私は、私が楽しいと感じられることしかできないのだ。
継続のコツは、誰でも最初は未完成だと知ること。
最近、雑談でライブ配信をしている。今日は朝ラジオ配信をした。とっても良い朝になったと思う、自分にとっても、きっとリスナーさんにとっても。
リスナーから「お話上手ですね」とか、「楽しかったです」、「素敵な時間をありがとう」と言われた。たくさんのリスナーがいるわけではないけれど、少しの人にでも、楽しいひと時を提供できたこと、元気をあげられたことがとても嬉しい。
すごい有名じゃなくても、私にできることはあるんだなって実感できた瞬間だった。
昨日見たYouTubeの動画でも、どんな人もはじめは低クオリティから始まって、それから継続しているから今プロになってるんだって言ってた。人気ユーチューバのヒカキンさんだって、最初はただゲームを流してただけの配信っだったって。
多くの人に届かない時代があった。今みたいに面白くない時代があった。確かにその通りだ。
自分の経験を思い出す
初期の伸びない時期に、やっぱり私ダメなんだってやめてしまうのか、それとも気にせず続けていくか、この違いだけなんだろう。
初期に伸びないことなんて、今までいくらでも経験してきただろう。部活だって、受験勉強だって。特に勉強は、受験間近になって点数が伸びてくることなんかがざらにある。
それが普通だって、先輩も周りもそうで、先生もそういうから、ずっと成績が伸びなくても深刻にとらえないで頑張り続けてきた。それと一緒だ。
ただ違いがあるとするなら、受験は学校という環境があって、ある程度強制的に勉強すす環境だった。その一方、自分がやりたいことである夢や目標は、誰にも強制されていないから、自分の熱意や忍耐力が必要。
一から十までお膳立てしてくれる人はいないってこと。自分の「好き」や「楽しい」の気持ちと、まわりからの少しの応援を糧にして進んでいかないといけない。
だからきっと本当にやりたいことじゃないと続けるのは難しい。
キーポイントは「行動」
本当にやりたいことが分からない。
それなら取り敢えずやってみる、行動してみることが大切だ。だって行動しなきゃ、何もわからないし、何も起こらないから。これは本当に最近実感したこと。
やっているうちにニーズがわかったり、良いアイディアがひらめいたりするから、最初から完璧を求めたり、始める前から考えすぎて結局何もしないのをやめたほうがいい。
やっていて違うことは修正すればいいし、失敗したってそこから学べることがあるから、そこから徐々に良いものへと変化していくから。
やっぱり普段よく目にするのは、自分から見ればすでに完成された人ばかりで、継続して今がある人達の「今」を見ているから、それと比べて自分はダメなんだって思いがち。
でもそんな人も最初は自分と一緒だったって気づくことができたら頑張れる気がした。
今はいろんな発信媒体があって、たくさんの人が発信しているから、まだ発展途上の人を見れる。人の過程をのぞくことができる。もしかしたらその姿が自分を鼓舞したり、参考になったりするかもしれない。
捨てられないときに見る言葉。
天気は悪くはない、くもり。
いくつかのものたちとさようならして、部屋もココロもスッキリさせたら、新しい日のスタートがきれる。
私の好きなものは何?自分の本心に向き合って見えてくるものは、もっと大切にしていきたい。
「精霊の木」は面白かったけれど、多分もう読み返さないだろう。買い戻せるものは、欲したらまた手に入れられるから、必要のない今は手放して、“今”必要な人へと循環させよう。
そうやって世界を滞りなくまわそう。私も世界の一部。穏やかな流れの中に身をあずけて、本来あるべき姿になって。
私は常に変化していて、だから私の身のまわりにあるものも変化していくのが普通の流れ。
執着を手放したら、気持ちのいい流れが自然と良いものを運んできてくれる。絶対に所有してなきゃいけないものは何もなくて、今あると良いものが一緒にいてくれるだけ。
いつかは、ここではないどこかへ行ってしまう日がきても、それはより良い場所へ帰っていくだけだから悲しいことではない。卒業と同じだね。
今まで私を幸せにしてくれて、ありがとうって感謝を伝えて、笑顔でさよならをしよう。
そのあとは、今あるものに目を向けよう。私をときめかせてくれる素敵なものたちがココにあるって気づけるよ。
もし人魚だったら、憧れたのはたぶん王子様じゃなくて地上の世界そのもの
もし私が人魚だったら、憧れたのはたぶん王子様じゃなくて、海から眺めることしかできなかった地上という未知の世界そのものだろう。
海の中の写真を見て、そんな考えがふと頭をよぎった。
私の人魚の物語は、内面を中心にきっとこう紡がれる。
地上に上がった人魚の語り
私は海の中からやってきた。青の中から飛び出した。緑と茶色の世界に憧れたんだ。
水のなかゆったりとたゆたうことはできなくなったけど、肌に風を感じたり、地を踏みしめて駆けたりできるようになった。
海の中は、下へ深く深く広がって、だんだんと闇が濃くなっていく世界だった。すごいね、地上は海と反対だ。高く、上へ上へと世界は広がっていて、だんだん太陽の光に近づいていく。
水面を境に世界は対照的になっている。
新しい世界、知らない世界、価値観のまったく異なる世界。おもしろいね。あたりまえが、あたりまえじゃないと気が付く瞬間は。
うれしいね、違う世界に同じものを見つけた瞬間は。空を飛ぶ鳥の群れは、海を泳ぐイワシの大群と似ているね。雨の日の薄暗さも、親を呼ぶ子の鳴き声も、葉をすかす木漏れ日も。
新しい世界はたくさんのことが違ったけれど、それでも一緒だったのは、世界は美しいということ。
私はどちらも好きで、海の中に戻るのは嫌ではないけど、それでもきっとこれからも、新しいことを知るのをやめられないだろう。新しい世界のトキメキは、私に人生の大きな喜びを与えてくれるから。
大丈夫。懐かしい青の記憶は、ずっと私の中に息づいて、なくなることはないのだから。
ありがとう、愛おしい世界のすべてよ。
神無月の茶道教室、千利休の人柄を垣間みる。【禅と茶道】【風露新香隠逸花】
神無月、今日は初めての茶道教室。
はじめに教えてもらったのは、茶室への入り方。茶室には、掛軸やお花が飾られており、お客さんはそれらの前に行ってじっくり拝見する。とくに掛軸には丁寧にお辞儀をして見るのが作法だ。
掛軸には禅語が書かれている。今日の掛軸に書いてあった言葉は「風露新香隠逸花」。
意味はもちろん、読み方さえわからない私に先生は丁寧に説明してくれた。説明の中で、千利休の人柄を垣間見る瞬間があった。
茶道教室では、ただお茶をたてて飲むだけではなく、季節にまつわる軸や花、礼儀作法など多くの知識を学ぶ。
今回は、神無月の茶道教室で学んだことを、禅語と季節を軸に紹介する。
風露新香隠逸花の意味と千利休
風露新香隠逸花は、「ふうろあらたにかおるいんいつのはな」と読む。
千利休が「利休」という居士を天皇から勅賜された際に、参禅の師である古渓和尚から贈られたお祝いの偈頌だ。
隠逸花とは、菊のこと。菊は気高く凛凛とした香りを漂わせており、花の所在がわからなくても、その清香によって存在が知れることから隠逸の花と呼ばれる。
古渓和尚は、目立つことをしなくても気高く凛とした存在感のある利休を、隠逸の花に例えたのである。
利休とは見えずともそれと知れるような佇まいで、オーラのある人間だったことが伺い知れる。
おもてなしの心が厚い千利休
オーラがあるのは、喜ばれるものを多くの人に与える生き方だからだろう。わかりやすい例でいえば、オーラのある歌手やお笑い界の大御所と呼ばれる人々は、たくさんの人に元気や笑いを与えている。
茶の湯を大成した千利休も、茶室でのおもてなしで多くの人を感動させてきた。
茶道の心得の基礎に「利休七則」というものがあり、そのなかに「降らずとも傘の用意」という言葉がある。
急な雨でもお客さんが困らぬよう予測して準備をしよう、つまり人への思いやりを持ってもてなそうという心構えのことである。
そんな心意気を持って多くの客を感動させてきた利休の生きざまを垣間見て、自分もそうありたいと思った。
茶道と季節
茶道は、季節感や季節を味わうことを大切にしている。お茶碗の形や柄、花や掛軸やお菓子も季節に合ったものが使われる。
季節の花とお菓子
今日飾られていた花は、吾亦紅(われもこう)、りんどう、ほととぎす、なでしこ、小菊、藤袴、そして尾花。
名前はどれも聞いたことがあるのに、名前と実物とが結びつかない。とくに、尾花はすすきのことだと初めて知った。もう少し自然を知ろうと思った。
お菓子は、紅葉狩りという和菓子だった。
茶道と一期一会
今日の茶碗の柄は、秋の七草だった。
先生がたてたお茶をいただいた後、茶碗をじっくりと見てから、茶碗を返す。
その茶碗に出会えるのは、これで最後かもしれないという気持ちで、しっかりと見なさいと言われた。
茶道では、人もお茶も茶会も今日のそれはただ一度限りであり、大切に思いやりを持つことを大切にしている。その一期一会の心得に、お茶碗と向き合う際に触れた。
初めての茶道の感想
教室では、お茶をたてることの他にも多くの知識を学ぶことがきた。特に茶道と深く結びついている禅の考え方にも触れられるのは嬉しい。
また季節を味わえるのも素敵だ。
佇まいと所作の美しい人を目指して、お茶を学んでいきたい。