白いお部屋

シンプルに幸せを見出す人のお話。

敵が味方になる物語が好まれるわけ

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昔から、敵が味方になる物語が好きだった。

 

ストーリーの前半で主人公と対峙していたライバルや敵が、後半には仲間になって一緒に冒険していたり、新たな敵を前に力を合わせて戦っていたり。

 

強敵だった相手が自分の仲間になるほど安心感のあることはない。

 

こういった流れの物語は結構よくみられ、大衆から愛されることも多い。

 

それはなぜか。その理由は、実際の人生においても善悪の対立はよく起こり、私たち自身その善と悪の和解・融合を望んでいるからだろう。

 

今回は善悪とは何かを考えることで、人生をとあるストーリーのように進めるコツをつかもう。

 

善悪は自分の視点でしかない

 

最初に完全悪として描かれる敵は、主人公視点からみた場合の悪でしかない。

 

敵も主人公と同じ人間で、彼らには彼らの人生があって、何かに悩みながらも自分なりの正義に従って生きている。

 

実際、戦争でも私たちにとって悪である敵国の兵士は、自分たちが悪だと思って戦っているわけではない。戦うことが自国を守ることにつながり、自分たちは正義だと信じて攻め入ってくるのだ。

 

いつもがみがみうるさい母親は、「早く寝ること」や「勉強をすることが」正しいと信じていて子供のためを思って叱っているとしても、子供にとっていつも怒る母は悪にしか映らないかもしれない。

 

言い方のきつい上司は本気で会社のことを考えている人でも、部下からは厳しい上司と嫌われることもある。

 

物事の善悪は、本当は考え方の違いだ。正しいと信じて行われることでも、お互いがお互いの意図を理解していないと、相手の行動は受け入れられない悪として映るのだ。

 

世の中の善悪は、誰かの都合に良いかどうかで決められていることがたくさんある。

 

敵も味方になっている状態とは

 

善悪が一面的な視点でしかなく主観的なものなら、客観的に見たときそこに良いも悪いもない。

 

だとしたら、闇を駆逐して光だけが広がる世界は、私たちが本当に見たい景色とは違うだろう。

 

敵と和解して仲間になる瞬間、つまり善と悪の融合こそが、多くの人が見たいと望む世界なのだ。

 

パワハラだと思っていた厳しい鬼上司の態度は実は主人公へ期待してるがゆえであり、主人公が上司の本心を知った瞬間、主人公の考え方が変化し感動的なシーンとなるのはまさに融合のストーリーだ。

 

仏教の教えに中道という考え方がある。

 

悟りの真髄とされる中道とは「両極端を離れた」という意味。苦行を行っていた仏陀が、快楽に溺れる生活、あるいは禁欲で追い詰める生活のどちらか極端に偏ることなく、バランスよく生きていくことが大事だと説いている。

 

この中道という考え方は、昼もあれば夜もあるこの世界の全ての二対の事柄に対していえることだろう。

 

善と悪、どちらかに偏らず物事をとらえることで、人生のなかに現れる敵はいつしか敵ではなくなっているだろう。